昭和40年01月02日 朝の御理解
本日一日をどう教えに、もとづいて生きるかと。それが私は信心、それが信心生活だと。今日一日をどうみ教えに、もとづかせて頂いて生きるかということ。明日のことではない。過去のことではない。今日一日だ。今日(こんにち)だ。今日一日をいかに信心で生きるかということ。「日に日に生きるが信心なり」と教祖はおっしゃっておられます。本当にその逞しいというか、元気の出るみ教えです。今日一日をいかに教えにもとづいて生きるかということ。
今日一日をどうおかげにしていくか、ということではなくてから、今日一日をいかに生きるかということ。そこに、期せずしておかげになる道が、開けてくるのだと。どう生きたらいいだろうか。今日一日を、どう取り組ませて頂いたらよいだろうか。足元を乱さんように、心を汚さんように。小さい人間的な考え、いわゆる頭で考えてのつまらん人情、つまらん取り越し苦労をしてはならん。私はそういうところに焦点を置いた今日一日でなからなきゃならんと思う。
足元を乱さんように、まず。足元を乱すとすぐその日一日がよろよろになってしまう。足元をしっかり、どのような事があっても自分の心を汚さんように。自分の頭で詮索したり、考えたりせずに、取り越し苦労などせずに、生きて行くと。様々な難儀にたとえば直面いたしましてもです、ただ天にまかせて地にすがるという一心の信心をもってすること以外にない。それを頭でわずろうたってつまらない。思うたところでしかたがない。ね。今日一日をいかに生きるかということ。
神様、今日も目覚ましのおかげを頂きました。これから、今日から只今から、どう生きさせて頂きますか。どうおかげを頂いたらよろしいでしょうかという事はです、ね、私は毎朝毎朝、神様からもしお言葉をもって下さるなら、こういう事ぢゃなかろうかと思うです。しかもこちらの信心がさらな勢いというか、さらな信心が出来ておればです、その同じことが新たな事として頂けてくると私は思うです。
「さあ、今日も足元を乱すなよと、心を汚すような事があってはならんぞと。つまらん事を頭で思いわずらうなと。さあ、どうでも出来んならば、いよいよ天にまかせよ地にすがれよぞと。以外にない」そういう私はお言葉を毎朝下さるにちがいはないと私は思うです。その毎朝同じ、そのたとえばお言葉がです、私共がその日その日さらなものとして、新たなものとして頂けていくというところにです、有難さがわかってくるような信心をひとつ頂きたいものだと思う。
信心とは今日一日をです、いかに教えにもとづいて、生きるかということなんです。そこに教えが、おろそかになされてはならない、言わば朝の御祈念が、朝の御理解がいかにその日一日の重大な役目になるかという事がわかるではないですか。言葉を変え、表現を変えて、いかに毎朝頂く御理解が、成るほどもっともだという、御理解を頂いてもです、要は只今のところを、私は教えて下さる以外はないと思う。私は今朝からお夢を頂いた。『やはり椛目である。
ここの駐車場がとにかく、もおう運動場のように広くなってその小石がいっぱい敷つめてある。そこにもう様々なバス、自家用車、トラックと。それかと思うと、なんですかね、荷物をこう下ろす何とか言いますね。様々な車がいっぱいこの駐車場にとまっておんるです。私はその寝ながら見たり、寝ながら聞いたりしているですね。それが誰かというと鹿児島の種子島というところから、種子島に中園さんというて、ここで一、二か月修行した女の方がおります。
十何年前。それから現在は東京におられますけども、当時北海道におられました<くりや>さんというて、久富先生の親戚にあたる、今はデパートかなんかに勤めておられますけども。当時はなんですかね、山下さんの、山下<ほうぶん>ですかね、の参謀をしておられた方なんです。その方とがですね、二人そこんところで話しながら入ってくるんですね。中園さんとくりやさんと。もうぜんぜん、後から考えたんですけども、ハァー、これは南の果てと北の果ての人だと思うたんです。
そしてその二人がですね、椛目言葉なんですね。も、とにかく一年のうち、元旦祭に一遍お参りしときゃですのや、ち二人で話していきよんなさるです。その一年がおかげ頂けるもんぢゃけ、汽車賃やら宿賃ぐらいの事は問題ぢゃなかですの、ちちから二人ながらに椛目言葉で話してきよんなさるから、ほー、この人達、いつのまに椛目言葉を覚えんなさったとぢゃろかと私が思うておるところであった。』
一年に一遍、たとえば北海道からであろうが、種子島からであろうがです、ね、たとえば汽車賃やら宿賃ぐらいの事ぢゃない、一遍元旦祭にお参りしておけば、一年が助かられるというのだから、こげな有難い事はなかというてその椛目言葉で話して、こちらに入ってこられるところなんです。『そしたら次にはです、あの運転手さんあたりが着る作業の、着て、運転手さんらしいですね、又は、あの自動車の運転手さんらしい人達がおりてから、お参りして来るです。
「私は新車を買うたら必ずここにお参りに来る。御神米ば頂いてお祭りしときゃ、まあ事故はない」という意味のことをですね話しながら、「そうですもんね」ち言うてから、運転手さんふうの方達が話しながら入ってくる。ハハァー、このたくさんの車はその交通安全の言わば御守護を受けるために参ってきとるばいなと私は思った。お夢の中で、しかも夢の中で寝ながら。こりゃ有難い事になってきたことぢゃあるな、と。その有難い事になってきたことぢゃあるなと思った途端にですね。
私のやすんでおる枕もとの床柱にですね、カチーッというお夢の中で、お勇みで今朝目がさめました。ね、私はびっくりして起きさせて頂きましたら、きっちり四時でした。それから起きらせて頂きまして、ハァー、これは私は寝ながらでも、言わば楽をしながらでもお取次ぎをさせて頂くようなこっちゃならんなと私は一番に思わせて頂きました。寝ながら聞いておるのですから、その事を。
南の果てから北の果てから、ね、元旦祭に一遍、お参りさせて頂いときゃ、一年が助かる。新車を買うたら、椛目にお願いに行ったら、交通安全の御祈念をして下さる。おかげで無事故ですむ事が出来る。例えばそういう、生き生きとした神様の働きがです、椛目のお広前に、だんだん出来ていきつつあるということ。いや、出来ておるということ。現在の圏内においてならば。そして私が一番初めに申しました事を、ひとつ思いあわせて頂きたいとこう思うのです。
どんなに、「日に日に生きるが信心なり」という生き生きとした信心をなさって、本気で教えに取り組んで、足元を乱しちゃならん、心を汚しちゃならん、取り越し苦労をしちゃならん、そういうような事に、取り組んで、たとえばおられてもです、生き生きとした神様の働きに、触れられない人も、教団の中にもたくさんあるという事です。ここが私は問題だと思うんです。とにかく、あの人はもう本当に、その教えを実行、行じぬいていきよんなさる。
にもかかわらず、どうしてあげん、おかげの受けられんだろうかと、いうような人達がです、全国にはたくさんあるという事です。ね。年のうち一遍お参りさせてもらやあ、一台の車を買わせて頂いたら、ただ一遍交通安全の御祈念をして頂けばです、それで災難がよけられる、それで一年が助かられるというような、働きの中にです、私共が日々、只今申しますような、日に日に生きるが信心であると言うこと。どう生きるかと、今日一日どう生きるかと。ね。
神様、今日一日をどう生きさせて頂くことがおかげでございましょうか、と言うてお伺いさせて頂いたなら、神様が毎日毎日、同し事を繰り返してくださるに違いはない。「足元を乱さんことぞと。心を汚さんことぞと。つまらん事に頭を使うなよと。いよいよの時は、天にまかせて地にすがること以外にないのぞ」と。そういう例えば神様のお言葉をです、私共の日に日に更な心でそれを、ハァーそれどころではないなと、今日もいよいよ足元を乱さんように、心を汚さんように。
そこんところに焦点を置いておかげを頂くぞという私は信心に焦点を置かせて頂くという事と同時に、椛目のそうしたひとつの特別のこれは神様のお働きです。ね。教えも頂かん、ただ一遍参っただけでも、おかげの頂けるというような生き生きとした、その生き生きとしたその働きと、生き生きとした生き方とがです、一つになる時に、私は本当のおかげが頂けるのぢゃないかとこう思うのです。神様の生き生きとした働きがここまで来ておる。言わばここまで電流が流れてきておる。
これに私共の生き生きとした心をもって、これに接する時、ね、精米所であるなら精米機が動くだろう。製材所であるならば、あの大きなのこがスイッチひとつで動くようになるだろう。そういう働きになってくるわけなのです。だからこちらだけが生き生きしとっても出来ん。こちらだけが生き生きしとっても出来ないという事がわかるでしょう。私は今朝のお夢を頂かせてもろうてから、ね
、そういう特別な神様の働きが椛目のお広前の上にあるならばです、それを私が寝ながらでもそれを取り次がせて頂くようなことでは、これは私自身として冥加が尽きるなという思いを、まあ、初夢にそういうお知らせを頂いてから、それを痛感いたしております。皆さんもです、確かに、「日に日に生きるが信心なり」であります。今日一日を教えに取り組んで、いかに生きぬかして頂くかと。
そこに生きた働きと生きた働きが一つに成ってです、ね、とにかく百人、千人でどうにも出来ないような大きな力が、働きがです、生まれてくるのだという事を私は思います。「日に日に生きるが信心なり」と。日に日に生きるが信心とは、今日一日をいかに教えに取り組んで生きるかという事だと私は思う。おかげ頂かなければなりません。